『時雨みち』と『禍福』

藤沢修平氏の時代小説『時雨みち』はいつの時代にも当て嵌まる何が幸せか? を功成り遂げた男の人生を通じて書かれており、齢を重ね黄昏時に教えられる人の幸せの意味を描いております。

奉公先の手代が女中と恋仲になりお腹に子供ができた時、老舗の婿入話に欲が出て首尾良く子供を始末させ女に別れ話を承知させた男・・・大店の主人になり忘れていたが二十数年ぶりに落ちぶれた昔の奉公仲間が訪れ、その女が今女郎になっていると教えられ若さから無分別で残酷なことをした回想から胸が痛み、女を尋ね二十両で詫びを入れるが壁に叩き付けられ『二百両でも承知しないよ、あんたのような人でなしに惚れたのが身の因果と忘れていたのに、金を出していい子になろうなんて。 あたいの方がお前さんを憐れんでいたんだ。 大店の婿に目がくらんで、冷や汗たらたらで逃げた男の汚い金なんかビタ1文だって触りたくないから、残らず拾って帰れ』と言われ二十両を拾い梯子を下りて帰る時、女郎に身を落とした女の泣き声が聞こえたので、翌日懐に五十両を入れて尋ねたが、その女は借金のない女郎だったので辞めていなくなっていた。

大店の男は暗い夜道を歩きながら、女房は十数年来役者狂い、娘はやくざまがいの男に付きまとわれ手切れに百両使ったことを振り返りながら、みんなバラバラに生きていたことを思い知る

大店の男も女もやり直しのきかない年齢になっていて、女郎になった女のただ泣くしかない涙から人生を思い知らされる。 

そんな物語なのですが若い時に望み大切に思うものと、ひと時代を生き抜いてから振り返った時に大切に思えるものの違いを象徴した物語で、お金で買える物とお金では買えない人の心の大きな違いがあり、黄昏時期を迎えて初めて見えて来る己の人生の総決算である自分自身の生き様を誰もがいずれ思い知らされます。

私も三十年ほど前に野心から事業を拡大しようと支店を出したことがありましたが一か月で頭を下げて閉店しました。

スーパーの中の店舗でしたが、閉店決断までの一か月間を床の中で毎日寝ないで考えたことが自分のこれからの人生についてでした。

それは事業拡大を計ると忙しくなり夫婦・親子の一緒に過ごす時間が極端に少なくなり、床に入ると無性に虚しくなり何故か? と思案したのですが、お金を追って時間を失ったことに気付きました。

それから自分の死ぬまでを思案して、私にはお金や地位や名誉より家族との絆の時間の方が大切で、それこそに生きる意味を感じていることや、人を雇わず個人経営だからこそできる薄利の商売と、少ないお客様だからできる血の通った接客が私自身の生きた証になるとの結論が出てから野心が消えて今に至ってます。

現在の企業不祥事もそうですが、行き過ぎた資本主義からか?

誰もがお金を目的化していて、お金さえ有れば幸せも含めて何でも買えるように錯覚しているように思います。

お金は生きて行くための大切な手段ですが、最近は誰もが目的にしているようで、お金を得る目的のために他人を手段として利用する悪徳が個人も企業も常態化しているようです。

個人のあらゆる詐欺行為も企業の不祥事も根は同じで、例え正社員になっても過労死するほどに労働を強いており非正規社員には同じ労働をさせて低賃金で済ますことに平気な血の通わない人達が当たり前の時代になっておりますが、そんな人達の家庭はこの大店の主人の家庭と同じでは? と私は思っております。

私の戯言はこれからは消滅する個人商店の負け犬の遠吠えですが、お金や物には代えられない人間としての情こそが、企業内や家族関係の中で培われて初めて絆として実感でき、それが個人の生きた証になり心の幸せという感情に繋がると思います。

夫婦・親子の家族一緒の時間を多くすることから様々な葛藤も生まれますが、その葛藤過程で議論に伴う責任がお互いに発生することが相互理解に繋がり、そのお互いの責任を果たすことで育んだものがそれぞれの人生の証になって行きます。

仏教本で読んだ記憶ですが、母の愛は喜びを限りなく与え続ける『与楽』の愛で、父の愛は苦を抜き去る慈愛の『抜苦』であるとありましたが、この実践のために夫婦・親子がお互いの心情を知る手がかりに一緒の時間が如何に大切か? が判ると思います。

妻や子供が何を求めていて、自分が与えられるものと与えられないものの理解を求め、私も妻や子供から何を得ていて何を得られていないかを理解する、そんな日常の繰り返しが実は『情を通わす絆』へと導いていて、安易なお金で済ますことは責任を果たすという時間を放棄した行為で未来への害に繋がるだけですので、安易に済ますお金がないことの方が実は幸せに繋がっているものです。

若いうちから悟っているのは考えもので、子供や若者は何事も既存の大人社会から学んで常識を身に付けているわけで、今のような手段を選ばずお金だけを目的にした大人社会の在り方は、子供の未来を非常に危険な方向に向かわせているような気がします。

人間も野球の投手のように最初は真っ直ぐ(直球)を磨くべきで、真っ直ぐを打たれても真っ直ぐを磨かなければならない時期があり、打てれて学ぶ経験を積んで初めて変化球を使うタイミングを知るのが投手(人間)としての健全な成熟した成長に繋がります。

大人としての苦労を重ねてから要領(変化球)を覚えて行くのが正しい成長過程で、子供に要領という変化球を大人になる前に教え込んでは一流の投手になれないように一流の大人になれません。

若者が希望が持てる社会にならないと日本の社会そのものの存続が難しくなりますので、まず家族そして教育の機会平等そして仕事(会社)の三つを組み直す作業を今しないと、個人の不幸せの拡大に歯止めがかからないような気がします。

現代は人から羨まれるような成功が幸せと捉えている人が多いのですが、それは本当の成功体験をしていない人だから成功者がその代わりに失ったものが判らないのです。

幸せは相対的競争や評価で計るものではなく、個人それぞれの絶対評価で計るものなのですが、それには絶対評価への個人の揺るぎない哲学と自信が必要になります。

学歴や企業規模や収入や地位という相対評価を求める傾向が強まっている現代は、個人としての哲学と自信を失っている逆説の証明ですので鬱病や自殺や引き籠りの増加に繋がっています。

相対評価で生きていると、人の不幸が自分の幸せで、人の幸せは自分の不幸になってしまいますので、心の奥底はいつも怯えて不安と孤立に苛まれた残虐な利己主義蔓延に繋がっています。

ちなみに藤沢周平氏の『禍福』は『時雨みち』の正反対の物語ですが、幸せは他人が羨んだりするような目にみえるものではなく、目を見開いて注意してしていないと失うまで気が付かない平凡な日常の中に潜んでいますので、これからの若い人達には幸せの定義の参考として読んで気が付いて欲しいと思います。