脱皮。

仕事柄から新茶時期の四月の末から五月の末までは忙しい日々を過ごしますが、その反動で六月からは落差の大きい暇な時間を店頭で過ごす時、ここ数年同じような思いを感じさせられています。

それは暇な時間を過ごす時に『自分の仕事が社会から必要とされていないのか?』と言うような寂しさを伴う無常観と共に、ここまで家族を守るために無事営業できたことへの感謝から、亡くなられた長年の固定客の方達の想い出に浸ることが増えたことです。

四十年近くも営業して来ましたので何度も廃業の危機に追い込まれた事態も経験して参りましたが、背負うものが多かったせいか? 

それとも若かったせいか? ただ夢中で、暇な時間に経済的な責任への不安は持っても、このような無常感はありませんでした。

子育てが一段落した後の還暦過ぎから、今までの認識とは別なものを感じるようになったので年齢のせいのようです。

今年三月で六十五歳の誕生日も過ぎ、ささやかな年金も受け取る年齢になってみると、今までは当たり前のように感じていた妻との二人の生活にも終わりの予感と不安を感じたりもしています。

どちらが先か? 妻が先を望んでいるので頑張るとしても、その後子供達に迷惑をかけない為の自分の生活の過ごし方など、私が先なら店舗や取引先の清算を綺麗にしたいなど、妄想のように次々に浮かんでくるのも年齢のせいです。

走馬灯のように行商時代からの今は亡きお客様を想い出したり、未来の自分達の死後を想像したり、孫の成長の姿やその時代状況を想像して案じたりなど、若い時には想像もしなかった自分がいます。

趣味は持っているつもりでも、老いることで時間的余裕ができても趣味だけで埋めるには体力も思考力も持久力が落ちて来ていますので無理は禁物で、意識と実態の狭間との闘いです。

忙しいとは心が亡びると書きますが、仕事も趣味も昔のように忙しく過ごせば危険な状態が待っているので全てが自戒との戦いです。

頭の中では過去から今までの連続で繋がっている自覚があっても、自分自身の体や社会の状況の変化を受け入れる柔軟性が無くなっていることに気付かされる事も増えて思う事は、老いることは若い時の意識や思いから脱皮するような、身の丈に合う新しい殻を身に付けることでは? という思いです。

それがどのようなものか? は若い人達への遠慮だったり、妻への敬意だったり、お客様への応対の穏やかさだったり、少し枯れて行くような境地に到りたいとの思いです。

それは決して自分を卑下するような変化ではなく、分相応の生き方に似ている、年相応の生き方を身に付ける挑戦のようなものなので、数年かけて脱皮を目指し年齢に相応しい新しい殻を纏い、孫や若者にも侮られたり面白がられたりするような、お茶目な可愛い老人になれたらいいなと願っています。

人の人生はどの年代においても何かしらの不安や責務を背負って生きるものですが、年代によってその不安と責務が変化して行きますので、その年代になって改めて思い知らされものです。

誰でも高齢になると役割が少なくなり時間的には余裕を持つのですが、この解放された時間の使い方が未知の領域で、無為に過ごすと社会や家族から必要とされていない思いに取り憑かれ、取り残されたような気持ちから様々な危機が訪れるような気がします。

そのことに気が付いて前を見ないと、年寄りの僻みみたいなものに繋がりますので、私も社会の片隅で細々ですが毅然とした商品を心掛け、いずれ閉店した後に価値が認められれば幸いくらいの気持ちの余裕を持った老人になりたいと願っています。

若い時は『人は褒められて伸びる』と思っておりましたが、最近は『人に褒められて駄目になった人間を沢山見てきたせいか、人にけなされた方が人間は駄目にならない』と思うようになりました。

良い時には調子に乗らず、悪い時に卑屈にならずをモットーに過ごして参りましたが、いくつになっても不惑どころか困惑の連続で過ごすのが私の人生と今は思っております。