大きな木(絵本)

孫が生まれ抱いていると、孫が成長した姿の人生を想像し頭をよぎる事は『私達夫婦が娘を生み育てたことへの責任の大きさ』の再確認で、この感覚は想像もしていなかったことでした。

最近は保育園に通い出した孫も風邪をひいたり熱を出したりして、娘の会社に電話が来ては急遽退社し迎えに行くなど、母子共に様々な状況の中で格闘する子育ての様子を眺めながら、どちらも逞しくなりながら夫婦・親子の絆を強めて欲しいと願っております。

私達が結婚し娘が生まれた時に考えたことは、一人でも生きて行かれる強さと多くの人の協力を得られるような人間に育て、心身共に健康な人間として社会に送り出すまでを責務と思っていました。

その過程で様々な喜怒哀楽を味わいながら、家族を持つ喜びと苦しみを実感しながら親子共に成長を強いられたことが人生を豊かにする事に繋がっていたと今は思えます。

しかし今は孫の成長過程を思い、これから数々の葛藤や苦悩を味わい乗り越える事を願いながら、あらゆる出来事の良いことと共に大変なことや悪いことが起こったら? と思うと、私自身の何か大きな罪みたいな責任をも感じる不安も持っています。

そんな漠然とした自分のルーツとしての責任感みたいなものを感じていた時、絵本作家シェル・シルヴァスタインの原題『与える木』日本名『大きな木』のストーリーを想い出しました。

 

内容はシンプルでありながら奥が深いものです。

1本のりんごの木がある。 その木はある子供と大の仲良しだった。

子供はりんごの木で木登りをしたり、枝にぶら下がったり、りんごを食べたり・・・子供も

その木が大好きで、りんごの木もその子供が大好きだった。


しかし子供は成長し、それに伴い考え方も子供の頃とは違ってくる。

「お金が欲しい」・・・成長した子供が言うと、木は自分になっているりんごをもいで売ってお金にすればいい、と教える。 それならと青年になっていたかっての子供はりんごを全てもぎ取って行ってしまうが、それでも木は嬉しかった。


さらに成長し、すっかり大人になったその子は今度は「結婚したい、子どもが欲しい、だから家が欲しい」と言う。

そこで木は自分の枝を切って、それで家を建てればいい」と言う。  壮年になった男はその言葉通り、枝をすべて切り取って、持っていってしまうが、それでも木は嬉しかった。

 

そしてさらに年を取ったかっての子どもは「遠くへ行きたいから船をくれ」と言い出す。

木は自分の木の幹を切り倒し、それで船を造ればと言う。  年取った男はその通りに木の幹を切り倒し、船を造って行ってしまうが、でも木は嬉しかった。

 

そしてさらに長い年月が過ぎ、もう老人になったかつての子供が、また木の元に帰ってきた。

もう何もあげられるものが残っていない木は、自分にはもうなにもないことを告げる。

しかし、老人は「もう、たいして欲しいものはない。ただ、座って休む場所があれば」と言うので、木は精一杯に背筋を伸ばし、残った自分である切り株に座ってやすみなさい、と言う。老人はそれに従って座る。 木はそれで嬉しかった。

 

この物語のいつも最後に言う『木はそれで嬉しかった』の言葉が原題 The Giving Tree(与える木)の本質に繋がっていますが、誰しも親になって知る子供への思いに似ていると私には思えます。

自分の身を削って粉にしても与える喜びが『無償の愛』で、自分自身は犠牲になっているとは思っていない『与える喜びです。

作者の言いたかったことは逆説的に、子供の行為を通して人間のエゴを言っているのか? という解釈もあると思います。

老人となったこの男の人生は幸せだったのか?

りんごの木からの贈与に対する返礼を身に付けなかった為に、切り株に座って人生を後悔していたのでは? など解釈は色々ですが、私は単純に無償の愛の贈与物語として受け取っています。

人間はどこかで『見返り』を求めがちですが、親として子供に生を授けた責任を思うと、子供や孫にはこの木のような無償の愛を貫くことが喜びではないか? と思ってます。

そして未来を生きる子供や孫達は、りんごの木から沢山の恩恵を受けて人生を過ごした主人公のように、愛情を授けてくれる人達から沢山の愛を受け取って自分の人生を全うすることが、世代を繋ぐ行為として続くだけで良いのではないか? とも思っています。

この物語には書かれていませんが、この主人公も老人になるまでに

自分の愛する人達に多くの物を与えて、以後に戻ってきて切り株に座っているのでは? とも思えます。

優秀な物語は読む人達それぞれの解釈が沢山あると何かに書いてあったように思いますが、人それぞれの立場や人生によって見方や解釈が違ってくることに本の面白さがあります。

孫を抱きながらこの子の未来を思う時、私が結婚をして家庭を持ってから娘の親としての責任を感じた時とは比べ物にならない、世代を繋ぐという規模の大きな責任を実感させられています

これからも孫と係わって行く中で、私達自身が老いを重ねながらも情を交わす行為を重ねるうちに、また初めて実感させられる別な思いも湧いてきて、その時に又この物語の解釈が変化するのでは? とも思っています。

児童虐待の報道などを聞くたびに、貧困・格差・夫婦仲など様々な問題が背景にあるとは思いますが、この絵本を子供に読み聞かせながら親としての自覚が増加すれば? と思ってしまいます。

過剰な豊かさの中に潜む傲慢さに敗北しかかっている現代人は、

搾取か? エサで釣る詐欺か? 自分の贈与への見返りか? のような人達が増え過ぎ、等価交換を越えた贈与への返礼という感謝の気持ちが人間としての強さの源に繋がることも忘れています

今の私は自分の子を持ったことが自分達だけの問題ではなく、世代を繋ぐ大きな責任へと繋がっているという自明のことを、抱いている孫の温もりと共に思い知らされながらも、大好きな婿殿・娘・孫へ絵本『大きな木』のような無償の愛を授けられて、切り株だけになって終われたら本望では? とも思っています