本来の学びとは?

一般に学びと言うと学校で勉強する学問を指していますが、しかし現実には社会人となってからの学びの方が人生においては圧倒的に大切で長い期間を占めております。

社会生活を円滑に過ごす為に歴史や文化を含め基礎的な知識や専門的な知識を大学までの期間に学びますが、これらの知識は社会生活を営んで行く為に必要な術を習得するという明確な目的があり、そして学業においての学びは正解がひとつな事も特徴です。

しかし一人の社会人として生きて行くために必要な血肉化した習慣や考え方や倫理観など他者との関連性の学びにおいては、あらかじめ設定された人間としての目標もない中で、社会生活を通じて自らが学んで行く姿勢を維持することが大切で、この社会生活における学びがその後の人生に大きな違いとなって現れます。

社会生活では対人関係によって正解はひとつではなく、瞬時の決断を迫られるものも多く葛藤と哲学を強いられる苦悩を伴うものですが、このような時に求められる学びの姿勢によって人生の豊かさの度合いは大きく違って行きます。

学校で学ぶものは知識をまず丸呑みして覚えてしまうことが多くを占めているように思いますが、本当に理解し論理として血肉化されには時間的経過が必要ですし、血肉化される前に忘れ去られているものがほとんどで、咀嚼し血肉化する作業は学者の仕事で社会にフィードバックされているのが実情です。

しかし社会に出てから生活する人生において、個人それぞれが強いられる学びには職場の研修や教育訓練のような専門知識獲得の学びも有れば、上司・部下・同期などの人間関係や夫婦・親子関係なども含めた人間関係の心理的学びの葛藤も経験しながらの学びを重ねて人生を作り上げて行かなければならず、正解の答えがない中での決断の連続で学びへの明確な意志と謙虚さが必要です。

誰もが哲学を強いられる生活の中で、否応なく咀嚼を繰り返して血肉化しなければならないことばかりですが、このような繰り返しの中で知識を蓄積したものを知恵として血肉化して行きますが、果たして正解か? どうかの結果にはタイムラグも有ります。

現代は良い学校を出て一流企業に入り高額な収入を得ることを目的に学ぶことが主流ですが、人間は他者との関係性で幸せを実感することに繋がっているのに、その事を無視して学びを捉えている人は孤立した人生になりがちで、お金では手に入れることが出来ないものを知った時は手遅れになっている場合が多いものです。

混沌とした時代を迎えておりますが、平和な時代はともかくこれから予測される波乱の時代を生き抜く力には、知識を知恵に変換する柔軟さと対応力という謙虚な自己否定の姿勢を忘れずに絶えず自分自身と向き合う学びの連続を求められます。

学びは高収入を得るためのものではなく、どんな環境変化においても生き残れる要素を増やすことが学びの本質で、自己研磨だけでなく他者からの協力を得られるような人間性獲得の学びも含め、社会に出てからの学びの継続が生きる意欲の維持にも必須です。

例え大企業に入社しても生活の安定などは保障されておらず、社会の変化に対応できない企業は実際に衰退しています。

富士フイルムなどはパソコン・デジカメの普及後に変貌を遂げて、今は液晶ディプレイ・医療・化粧品・健康食品などフィルム技術を応用した環境変化に対応し生き残りを賭けていて、現在のフィルム部門の売り上げは全体の5%にも満たない状況です。

このような企業状況を見ると『教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸に刻むこと(アラゴン)』の言葉を想い出しますが、経営トップが環境変化の衰退に動じず、社員の蓄積した技術を信頼し未来への希望の指針を示し、社員もその信頼に答え誠実に実行した成果で、お互いが謙虚な学びの姿勢がないとできないことです。

ノーベル物理学賞の小柴昌俊さんは自分自身の人生を振り返って『人生は卒業後に自分からどれだけ能動的に働きかけたかで決まる』と述べていますが、自身の経験からの的を得た言葉です。

しかし現代の親や社会は未だに表面的な最終学歴で人物評価する癖から抜けられず、子供達にはその印籠を手に入れることを望んでおりますが、一番大切なのはその後の学びの姿勢を説くことです。

長寿でも認知症にならず心は若者のように情熱に溢れている老人の特徴は、いつも人生における目標を持っていて、その為の自分の体への配慮を忘れずに学びへの工夫と意欲を持ち、その情熱の維持そのものが心身ともに健康な人間に繋がっていると思います。

出来ない事ができる、知らない事を知る喜びは無償の喜びで、死が目前でも情熱的に生きている人にとってお金とは無縁のものです。

サミュエル・ウルマンの『若さとは人生のある時期のことではなく心のあり方のことだ。  若く有る為には強い意志力と激しい情熱が必要であり、小心さを圧倒する勇気と、易きにつこうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。 人は歳月を重ねたから老いるのではない。 理想を失う時に老いるのである』の言葉は有名で、人生においての学びの心構えとしては最適です。

地位を求める自己顕示欲やお金を求めて贅沢をする事を目的にして生きることも若い時の欲望の一過性としては必要ですが、成熟した年齢を迎えても権力や財産を目指すような生き方では儚過ぎる(人の夢と書いてますが夢で終わる)と思います。

私が印象に残っている織物作家・山口伊太郎さんは昨年105歳で亡くなったのですが、六十五歳頃に西陣織で『源氏物語錦織絵巻』完成を決意し四十年近くの歳月をかけて全四巻を完成させました。

百歳の頃にNHKの番組でインタビュー出演されたのを見たのですが、その完成までの歳月を考えた健康管理の為に食事中は100回を目安の咀嚼や散歩で足腰の維持などを心掛けて過ごしている趣旨のお話を聞いていて感動したのが忘れられません。

お話しの内容から人は歳月を重ねたから老いるのではない。理想を失う時に老いるのであるを実感させられ、純粋な学びへの理想を持って生活されていた人は、孤立からの認知症や病気とも無縁だったようで天寿を全うされた事と思います。

不平不満の多い人ほど学びの姿勢と家庭や社会においての役割を背負わない傾向があるうえに、他者への批判と非難も多いので近づく人も少なくなって孤立しがちの悪循環になってしまいます。

私自身も『少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず』をつくづく実感させられる年齢になりました。