親子・夫婦の関係を良くする為に。

日常の社会生活における一過性の接触ではなく、家族や組織のように継続して過ごす人間関係においては、それぞれの人間力みたいなものを無意識ですがそれぞれが暗黙で理解をしています。

家族や組織は扇の扇子に例えると判りやすく、扇の要にあたる部分が家長である父親や組織を束ねる責任者に当っており、扇子の開いた扇の竹の部分が家族や部下達に当ります。

竹と要のどちらにおいても大切で幸運に繋げる為には、要の部分の父親や組織を束ねる責任者の人格が大きな要素を占めます。

??家などの親族が上手く行く為には、その親類一族の家長に人格と財力が備わっていないと、扇のそれぞれの竹枝の親族が勝手な事を言い出して纏まらず、たとえ別の竹枝に優れた人格者がいても巧くは行かないのは家長ではないという意識が邪魔をしています。

ではその人格者に備わっているものとは何か? が主題になりますが、人格者とは『人を育てることができる能力を持った人』のことで、巷で考えるような金儲けの能力のある人では有りません。

そのような人の特徴は優しさと厳しさが表裏一体で、厳しい言葉の裏に優しさが隠れ・優しい言葉の裏に厳しさが潜んでいます。

人格者はそれを理解できない未熟な人達に対して、感情に対して感情で返すような同次元には決して下りず、取り敢えず相手の自我に対して怒りを抑えた表情(怒り・悲しみ)だけで『そうか』と譲る心の余裕を常に持っています。

それは支配・命令から相手の人間的成長が決して望めないことを知っていて、人間の成長はその人自身の内省からしか生まれないことを自分自身の人生経験で学んでおり、その内省を促す為には取り敢えず譲るという愛情の籠もった譲歩が必要なことを親や社会の誰かから与えられ学んでいます。(稀に反面教師から)

一番理解し易い例で言うと親が子供に教える場合で、悪い事をただ叱るのではなく何故したか? を良く聞いてあげてから、何故悪いか? を懇切丁寧に根気よく繰り返すことが愛情です。

例えば靴を履いたまま椅子に上がったら、椅子も汚れてその椅子の上に次の人が座ったらその人の服が汚れるでしょう? と説明し、だからいけない事と言って教えるの事が愛情の伴った叱り方です。

何事においても自分と他者の関係性で物事を考える訓練が社会性の獲得に繋がり、それが日々の生活の中に生かされて身に付くと、その後のその子供の人生に生かされて行きます。

夫婦の場合も一般的には夫として妻としての一方的立場からの意見が多く、相手を言葉や力という暴力だけに頼って押さえつけたり傷つけたりになってしまうことが多く、それでは同じ繰り返しの虚しい夫婦生活に終わってしまいます。

相手の不満や苦悩をまず『そうなんだ』と聞く余裕と、自分はこう考えていた趣旨は誤解を解く時だけ使い、相手の身勝手な意見と不満の自我には怒りを抑え・悲しげに『そうか』と引き下がり、相手に自己嫌悪を起こさせる度量がないと内省には結びつきません。

そんな我慢の繰り返しが実は自分の成長にも繋がっていて、相手が内省から成長し変化してくれた時の喜びは格別です。

喧嘩や議論の時に相手が感情的になったピンチはチャンスで、ここで硬軟を普通とは反対に使います

我が家の例ですと、妻が怒って感情的になり『本当に小生意気なひねくれ者なんだから』と私に吐き捨てるように言った時、心の中では『こん畜生』と思っても、静かに台所の妻の前に行って妻の目を一瞥してから『こんな小生意気なひねくれ者と四十年以上も共にして頂き、ありがとうございます』と言いながら慇懃無礼に深々と頭を下げました。

頭をあげると妻は唖然としながら『判ってくれればいい』と言ったのですが、その時には妻の怒りは何処かに行っていました。

逆に何かを話していて台所から妻が『最近は角も取れて人間が丸くなって可愛くなった』と褒めたのですが、その時はすぐに立ち上がり妻の顔を覗き込み『角なんか取っていない! 角を残したまま、その上を丸く包んで人間を大きくしているんだ!』と半分真顔で言ったら、妻はびっくりしながら『おおーっ恐! まだ角は残っているんだ? くわばらくわばら』と言い・・・その後も何かにつけて思い出したように『角は残っているぞーーっ! 恐!恐!』と自分が悪態をついた後の牽制球に使って来ます。

硬軟織り交ぜという言葉がありますが、相手が硬の時は軟で返し・相手が軟の時に硬で返してあげると、夫婦や親子の関係が縦ではなく横の対等な関係になって行くことも実感できます。

普段はお互いに悪態をつける関係にしておいて、緊急や咄嗟の時には相手を思いやる言葉や行為をさりげなく行う心構えが、実は自分自身の人間的成長にも繋がり、そんな繰り返しの化学反応として家族全員の成長と親子と夫婦の良好な関係にも繋がり、男も女も言葉や力の暴力が自分自身の負けに繋がることを悟ります。

負ける勇気が強さという心の余裕で、その余裕が柳の木のようなしなやかな強い心を育み、お互いがそこから自然に学び合いそれぞれの社会生活の中で実践して行くうちに、自分自身の成長を実感して行くのでは? と思います。

そして日常生活にはユーモアも潤滑油として非常に大切です。

ある晩台所で妻が洗い物をしながら私に聞こえないと思いオナラを続けたので思案し、立ち上がり直立し妻に敬礼をしてから『陛下(屁ぇーか?)』と恭しく言いました。

妻は最初驚き・・意味不明の顔をして・・意味を理解してから・・その場に座り込んで笑いころげた後に『頭がいいねー、別バージョンも考えてごらん』と宿題を出し開き直ったので、翌朝妻のトイレ中にドアーをコンコンと叩き『早く殿下(出んかーー?)』と叫んでやると中で笑い転げ、出て来てから『もういい参りました』と降参したので終わりにしてあげましたが、一連の出来事の中に暗黙として『親しき仲にも礼儀あり』も含まれています。

いつも相手のプライドを傷つけない配慮をし、まず二歩下がり内省を促してから三歩踏み込み、硬軟・真面目と不真面目などを織り交ぜたバランスが日常生活を明るく楽しくすると思います。

しかし私はこんな行為を好きな人にはできますが、嫌いな人に対しては絶対出来ないので、まだ成熟には程遠いと思います。