俳句。

1年程前にあるお客様から『俳句を始めて!』と言われ俳句の季語が載った歳時記を置いて帰られました。

そのような趣味は考えてもいなかったのですが、本の価格を見て驚き御厚意への感謝で真似事を始めたのですが、勉強して行くうちに自分自身の日記代わりに良いと思って続けていると面白いことに気付きました。

それは人から見て良い句と自分にとって良い句が違うことです。

歳時記を戴いた方の句で説明すると『オムレツに日の丸立てて文化の日』は誰にでもその光景が目に浮かぶ、写実がおおらかで素直な人柄が出ていて好感される良い句と思い多くの方に選句されました。

しかしご本人はその句より『枯彩の庭に灯りしオンコの実』の方に思い入れが有り、そちらの方を選句された方が嬉しかったと話しました。

枯彩(かれいろ)と読み、居間から見える庭の枯葉の色合いを言っていますが、そこに祖父母から送られたオンコの木に赤い実がなって明かりのように灯って見える光景を句にしています。

この木は家を建てる時に作者を可愛がってくれた祖父母が家の『門かぶり』として遠路運んで植えてくれたもので、家族繁栄・厄除け・人が来て福を運ぶ等の古来から家の縁起かつぎとして多くは松を植えたものです。

人は一人で生まれて来てひとりで死んで行くと言いますが、その間に結婚や子育てなど伴侶と支え合わないと生きられない程に弱いから人と書くようになったと思うのですが、大切なのは支え合う人がまだもういない一人の時の最初と最後です

人が健全に成熟する為に必須なものは無上の愛で、あるがままの自分を愛しいと思ってくれる人に見守ってもらい育つことが、自分自身が生まれて来て良かった人間と自覚できる事に繋がり、実はそれが人間の生きる力の根源になっています。

つまり愛を贈与する人も、その愛を受け取る人も、その関係性の只中にいる時が、どちらの人も実は心底『生きている』ことを実感しているものです。

容姿や勉強や運動の出来不出来と無関係に愛してくれ、いつもあなたの健康と幸せを願い見守ってくれる人が一人でもいたら、性根の良い人間に育ち・人に愛されると思います。

人間だけは長い依存期間を経て自立を迎えるのですが、幼少期は見守ってくれる人、成人してからは守るべき人がいて困難に立ち向かう強さを得るもので、それは人生を重ねて高齢になると特に思い知らされます。

社会性を持った人間の一番の苦悩は孤立ですが、愛された人は僻まないので孤立せずに人生を豊かに過ごせ、愛された記憶が愛し方の習得になり無事に子供達も巣立って行く事にも繋がっています。

高齢になって一人になったら過去の沢山の良い想い出が大切で、それが老いの人生の隙間を紡いでくれます

枯彩の俳句には作者自身しか知らない人生が十七音の中に籠められているのでは? と私は思います。

多くの人の共感を呼ぶ俳句も良いのですが、作者自身の人生の背景を彩っているものの方が私は好きです。

ちなみにその時の私の句では『店先を掃き秋風に小商ひ』が選句されましたが、私は『吊るし柿孫にしやぶらす妻の乳房』の方が思い入れが有ります。

産後で娘達が来ていて、孫が泣いているのにまだ時間が早いと言って与えないので、妻に『出なくても落ち着くからしゃぶらせてあげたら』と私が言い妻が与えると、物凄い勢いでしばらくしゃぶっていました。

娘に叱られ止めましたが就寝時二人きりになった時、妻が『三十三年前の母性の記憶が蘇り錯覚した』趣旨のことを話し、走馬灯のように頭の中を走ったそうです。

床に入って『娘に叱られたけど、妻の為には良かった』と思いながら、娘も妻の年齢にならないと判らないことがあり、その時を迎えた時に娘にも良い想い出になるのでは? と思い眠りましたが、私も思い入れは選句されなかったこちらの句の方があります。

人に褒められる句か? 自分の思い入れのある句か? それぞれの価値観ですが、そこには人間性というものが反映されているような気がしています。