絆を奪った匿名性。

何処へ行っても儀礼的なマニュアルの応対が普及して、私共のような『なじみになった』お客様との会話を見知らぬお客様が来店して聞いていると二通りの反応が見られます。

ひとつは『何か懐かしい、安心感のある良い店ですね』と言うニュアンスの人と、もうひとつは『なんでも知られているようで怖い』と言うような批判的な人です。

固定客の人達は私の忌憚のない性格を知ったうえで来店していますので、常識の範囲内で日常を公開し合って会話していますが、実はその公開した会話を通じて『絆や愛情』が生まれているものと私は思っています。

変化は個人情報保護法が施行以後からで、こちらはいつもいらして戴いているお客様が遠くからかな? と思って『どちらからですか?』と聞くと、『なんでそんな事を教えなきゃいけない』と返答されるような出来事が増え始めました。

コンビニで毎日弁当を買う人に『いつも同じ弁当で、お好きなんですね』とか『お一人で暮らしているのですか?』のような会話は現代では非常識の禁句になっています。

お金と物を交換する行為の中に匿名性を原則にするようになったことで、赤の他人としての関係の方が面倒が少ないし楽だからです。

しかしその延長でトイレで食事をする若者達や、大学の食堂では他人の視線を遮る衝立が置かれ一人で食事をする席が増え続けているそうですが、そんな状況下では友情や愛情が芽生えて行く余地が生まれるとは? 私には思えません。

何年か前の早朝散歩の時、かなり遠くから大型犬が飼い主を引っ張り走っていましたので不審に思って見ていると、行き着いた先に秋田犬の子犬がいました。

子犬は怖がって飼い主の足元に逃げていましたが、大型犬はその子犬と遊びたかったのでしょう、突然子犬の前で横になって腹を出し危害を加えない姿勢を示しました。

子犬は怖々お尻や腹の匂いを嗅ぎ無抵抗を示す大型犬を観察していましたが、警戒を取ったと判断した時に大型犬は立ち上がり二匹は楽しそうに遊び始めました。

そのほのぼのとした様子を見て歩き始めた私は現代人の孤独と孤立の原因を思い知ったように感じ、たとえ嫌われても今までのように普通の会話を続けて行こうと決めたのを覚えています。

社会性を持って生まれて来ている人間は弱いもので、誰かと繋がっていないと心も体も弱って行くものです。

人間は誰かを愛することで強く生きられたり、誰かに愛されることで自分自身の存在価値を確認して自分を維持しています。

ここ大麻も高齢化と一人暮らし世帯が増加していますが、日常の会話で事情を知っている私の閉店後の一時間の散歩コースは、自然と一人暮らしのお客様の家の明かりを確認しながらになっています。

先日もその事情を知っている奥様から電話があり、明後日から大腸検査を受けるから心配しないでねと電話があり、後日検査結果が大丈夫だったと電話があり『良かったね』と話しました。

その翌日からその近所の一人暮らしの人の家の明かりが三日間消えていたので不審に思い嫌がられてもいいと思い電話したら、風邪でただひたすら寝ていたと聞き、今度からは電話をよこせば店を開ける前に病院に連れて行ってあげると言うと『今度は頼みます』と言ってくれました。

子供達が全員内地の方という人達には『遠くの親戚より近くの他人』という言葉を言って、何もお礼できないという人には『私が高齢になって困った時は、次の世代の若い人達にお世話になるの』と話しています。

田舎や下町のようなプライバシーのない社会は面倒くさく鬱陶しいのですが、ではお互いに赤の他人という事にしようという約束にすると現代のような地域社会の崩壊が起こります。

人間の営みを次世代に繋いで行くためには、節度を保った干渉や情報公開を出し合うことも必要ですが、ベネッセの個人情報漏れのようにそこにお金という問題が絡んで社会が歪んでしまったことにも原因があるような気がします。

未婚者の増加や少子化や高齢者の孤独死なども他人の視線を遮る衝立の増加が、実は絆や愛情を育むことを難しくしています。

その逆にネットや携帯のような個人が特定されない所では誹謗・中傷が盛んなことが反動として蔓延している状況が異常で、建前と本音を使い分けることが常識化しています。

親子でも夫婦でも他人とでも、人と人が繋がる為にはある程度の煩わしさを避けては本当には繋がれないのでは? と私は思っています。