教養とは?

一流大学出の就職難や大企業の一流大学出のリストラはものすごい数で、今は逆にコネ社会の方が幅をきかしています。
現代人は今でも学歴が大切と思っていますが、不況の影響も含めてもう十年以上前から学歴より教養が必要な時代になっています。

それは学歴があっても教養のない人が増えすぎた結果と不況によるポストの減少で、企業を含めあらゆる組織で学歴があっても教養のない人は必要ないことに気付き始めています。

ニーチェは『教養とは、自分とはまったく違う他者を理解する為に必要なもの』と述べていましたが、つまり単なる知識でもなくお金を稼ぐ為の実用性も有効性もないものですが、理解できない他者を理解しょうとする人間としてもっとも困難な努力を必要とするものです。

判りやすく言うと『見えているものから、見ないものが推察できる能力』みたいなものにも繋がり、そんな努力なしにビジネス相手を獲得できないし、組織を円滑に進めることも活性化することもできず、まして一体感を生むことはもっと難しくなります。

夫婦生活・学校生活・社会生活と、より大きな枠の中で生きるにつれて人は様々な人を理解する努力を強いられ、自分への問いかけを続けることが求められますが、単なる知識はネット検索で十分な時代です。

私は若い頃、ゲーテの言う『自分が自分になる為の経験を教養という』意味を理解できずにいましたが、五十歳を過ぎる頃に成程! と思い当りました。

それは誰の人生においても障害物に突き当りますが、その時の対処は人それぞれですし、結果も対処方法によって違ってきます。

つまり対処法に人間性が出ていて、その人間性が結果を誘引していて、その結果の中身が経験になるのですが、悪い結果も良い結果も自分自身の教養の産物ということです。

そして悪い結果の人は教養がまだ身に付いていないので、本当の自分になる為の経験がまだ必要な障害物が待っている。       

人間のどんな経験も教養を獲得するためのもの・・・殺人者になっても教養を獲得できず死んで行く人もいて、経験そのものが全ての人の自己を見つけることに繋がっています。

昔は知識が無くても教養のある人が沢山いましたが、一見無駄に見える教育が余裕を作り出し、教養に繋がる作用をしていました。

昔の教養教育の本の内容を要約すると、ニーチェの高校時代の授業はその時代に実用性がないラテン語とギリシャ語と数学が中心で、教師はラテン語で喋って生徒はギリシャ語で書き取りをする高度な授業の毎日だったそうです。 

明治の外交官試験問題は全てが漢文で、合格後は英語漬けで漢文は禁止だった。 

こんな実用性のない教育で隆盛を極めていた国々が実用教育に転換してから衰退を始め、ドイツのようにファシズムに走った経緯なども述べられていました。 

つまり功利性から離れた世界で深みを味わい、自分が自分になること以外の何の目的も持たない探求がよく生きるすべを身につけ、その為の経験をするのが教養教育と結んでいました。 

弱者を幸せにしない強者を増やした現状も、他者を理解する努力と経験より実利に繋がることを優先した近道を家庭や学校や社会が選択した為の教養喪失です。

実利とは程遠い無駄に見える苦悩と努力への忍耐が教養に繋がっていると思い到ります。