母の認知症。

九十二歳になる母に認知症の症状が出て来て、遊びに連れて行ったドライブ中に死んだ父の義弟が最近尋ねてこない趣旨の話をし『伯父さんは車を持っていないので来られないんだね』と言うので『そうだね』と答え、昔の話を一時間程して覚醒させてから話をすると伯父の死を理解しています。 

仕事中に母を思いながら、昔読んだユングの意識の世界の中心には自我があり、無意識の世界の中心に自己がある、そのバランスが崩れた時に精神的な病を発症する・・を思い出しました。 

母は三年程前にとても辛い体験をし、その時に認知症になる予感を持ったのですが、人は耐え難い苦悩や孤立を抱えて生きる限界の閾値を超えた時、その苦痛や自己嫌悪から逃れる為に認知するのでは? と私は思っています。 

冬山での遭難時、生き残る為に脳と心臓への血液循環を優先し、体の免疫システムが耳や手足を壊疽させても生還に導くように、精神の免疫システムもその人の心の限界点を察知して認知させれば、食欲も出てきて体力が回復し生命維持に繋がるに似ています。  

トラウマを取り去るのは容易な事ではなく、入り組み絡まった人間関係の糸は、その人の人生の軋轢の歴史的時間の結果です。 

子供を見守るように母の話に耳を傾けて、なるべく記憶が鮮明な昔の話題を引き出すと認知症状は減少します。 

意識の世界の中心の自我は薄れ時々支離滅裂になりますが、普段は無意識の世界に押し出している膨大な量の昔の事である私の子供時代を聞くと、『まあちゃんは本当に育てづらい、難しい子供だった』と詳細を鮮明に話す母の様子を見ているとその中心の母の自己は毅然と存在しています。 

今は両方の世界を行き来していますが、認知症状が出ても母の自己は健在で、母として1番輝いていた時代の話をすると覚醒し全てが辻褄が合っています。

過去の居心地の良い無意識の世界への逃避が認知症では? と私はなんとなく思って見守っています。