生きる意味と自殺。

本当にこの団地であったことですが、三十年程引きこもりの末に、生きる意思を放棄して餓死した男性がいました。 ずーっと老夫婦で支えておりましたが、父親の死後一年ほど経った初冬、母親は支えきれず引きこもりの息子を残し、遠くの娘さんの所に行きました。(恐らく夫の死後、息子さんからのDVによると思います) 

一人残された家は、冬の間出入りした形跡もなく雪が降り積もっていたそうで、雪解け頃に警察が入室して遺体が発見されました。 

近所の人達は硬く口を閉ざしていたのは自責の念でしょうが、こんな事件が増える予感がします。 

メディアの影響か? 家族愛で包まれた家庭を理想化し、家族間の嫌なものと議論に伴う責任を避ける傾向の家庭が増え、今はどこの家庭にも起こりえる問題と思います。

母親は時折来店して、私を宗教に勧誘していましたが、この件で宗教に熱心だった理由が判りました。 

『人は何のために生きているのか』と娘が小学校五年生の時に聞かれ、寝る時の今日のお話として『お父さんもずーっと考えてきたけど、生きてることに意味はないと思う。 でも生きていて良かったと思う時は、幸せな気持ちなので、きっと幸せになる為に生きているんじゃない! そして自分が幸せな人は周りの人も幸せにすると思う』と話しました。

『そう好きな人が幸せな時、自分も幸せな気持ちになるね、生きてることに意味はないのかー』と言い納得しました。

無意味な自分探しや、堂々巡りの生きてる意味を考えるよりも、自分と誰かを幸せにする為に生きることが大切と、正直に娘に答えたのですが、実は私が答えを貰っていました。 

子供の『生きる力を育てる』には挨拶などの原則的なことだけを教え、子供が親を簡単に乗り越えられるようにし、『あなたの為』という真綿で首を絞めるような親の欲望の道具に使うのを止め、命令や支配をしないで子供の人格を尊重し、等身大の子供を愛することが大切のように思います。  

大人になって柳に風のような強さを持った人は、幼少期にあるがままの自分が愛された、好きな人によって作られた承認の土台が有ります。