承認されない人の残虐行為。

現代の雇用形態の多様化が若年労働者と弱者を出口のない苦悩へ追いつめて鬱病・自殺・残虐事件の増加に繋がっています。

しかしその実態は人間が苦難の中で生きて行くために必要不可欠な『人からの承認』が会社や家庭で枯渇し始めていることも関連している思います。 

増加した非正規社員は正規社員の高給を羨み・長時間労働を蔑み、正規社員は非正規社員の自由時間を羨み・低賃金を蔑む構図で、一緒に働きながらもそこにお互いを『承認』する構図が生まれないことです。

正社員には家庭を持つ資力に恵まれますが、長時間労働の為に家庭を顧みる余裕もなく妻から夫としての『承認』を得られずに離婚に追い込まれた人達も多いと思います。 

秋葉原で十七人を殺傷した二十五歳の青年は現実でもネットでも自分を認めてくれる人がいないと言い、神戸の酒鬼薔薇聖斗少年は自分を『透明な存在』と表現し、どちらも残虐な行為に走りました。 

オウム事件の人達も麻原の承認を求めて無差別殺人に手を貸しました。

この自己承認欲求は誰にでもあり、実は人からの承認が自己肯定感に繋がって苦悩に堪える力になっているのだと私は思っています。 

高度成長の時は家庭での時間も今より夫・父としての時間があり、家庭で得られない人でも会社には余裕があって職場仲間でも得られました。

幼少期に親からの無条件の『承認』を受けないで育った人達は大人になってから、この不承認に対する耐性が弱くなってしまうのですが、承認を勝ち取る為の思考回路と努力も欠落して育っています。

不況企業に手っ取り早い人件費の削減は、正規・非正規に労働力を分割して利用する事で、政治もグルで財界の要請に加担しました。 

人間は過酷な状況で誰からも承認されなくなると、誰もが持っている僻み・妬みの憎悪や自己顕示欲の肥大で暴力的になり、自分に向くと鬱病・自殺、他人に向かうと残虐な行為になってしまうような気がします。

社会性を持つ動物は、仲間からの承認なしで生きるのが難しいのだと思います。

誰かからの承認と共に受け取る自分への愛の確認で、誰もが困難へ立ち向かう勇気を振り絞ることに繋がっていると思います。