老いも成長?

妻との二人の生活で老いを実感する出来事が増えました。煮魚を焦がしたり、布巾がないと騒ぐので冷蔵庫を開けると入っていたり、私はいつも同じ物を忘れて妻に取ってもらったり、顔は思い浮かんでいるのに名前が出てこなかったり等々、楽しい出来事が増えていますが、妻には出来ていた事が出来なくなったと嘆くのではなく、出来ていた事が出来なくなった事も成長と捉え、新しい経験を楽しんで行こうと話しています。 人はその年齢にならないと判らないことが沢山ありますが、歯を失って歯の有難みが判るように、当たり前に存在しているものほど実は大切なものであることも失って初めて思い知るものです。 

若い時には沢山のものを獲得しながら成長していくのですが、六十歳位からはあらゆる機能やものを失っていくのが摂理ですので、逆らわずに受け入れポンポン捨てて行って『こんな事もできなくなったよ』と受け入れ、『また成長した』とうそぶき、実害のない夫婦の間ではお互いに相手の不幸を喜び励みにして自分の幸せを確認し、生きる励みにしようと妻を洗脳しています。 

どんなに仲の良い友達でも夫婦の様に安心して喧嘩できないのは、何処かに不安があるからで、長年の夫婦はかなりの事も大丈夫です。 

健康状態も経済状態も良い時は感謝するのを忘れていますが、逆に悪くなると不安だけを持つものですが、悪い時をどう過ごすか? が一番大切な事で、受け入れないと立ち上がる知恵も浮かんでこないものです。

昨年は本や家具も最低限に絞り整理して、ストーブを取り替えるのを機会に二人のいつも居る場所を床暖にし、私の夜の仕事場も更なる高齢の未来を見据えて一階に移し暖房も設置して、今後の更なる老いに備えました。

釈迦の言った四苦『生・老・病・死』のように人間に必然の老いる苦しみを楽しみに変える知恵として、最後の死を迎えるまで失ったものを思うのではなく、まだ残っているものに感謝してと思っています。