義母の命日。

今日は義母の祥月命日ですが、様々な想い出を残してくれた人なので食事テーブル席の上に写真を飾り、乾杯など何かにつけて話しかけています。

特に妻に文句を言いたい時は『婆ちゃんの娘は・・・・』と妻の悪口を写真に向かって言っています。

九十四歳の時の八月頃から食欲がなくなり九月の半ばに入院し十月に亡くなりました。 

最初は暑さのせい? と思い私たちに心配させるからと、我が家には連絡するなとの本人の希望でしたが、弱って行く様子に不安を感じて連絡が来たのは八月の末でした。 

娘にとっては目標にしているお婆ちゃんなので、電話をすると会社には事後承諾でも一緒に会いに行きたいとの事で、急遽三人で深夜バスに乗り北見に行って来たのを想い出します。 

体が小さくなっていましたが、にっこり笑い『有難う』と何回も言いながら手を握って喜んでくれました。 

私と娘はこの婆ちゃんの持つ無邪気さが可愛くて大好きで、義父が亡くなってから毎年夏には我が家に義姉と共に十日位遊びに来るのが、夏の恒例行事でお互いの楽しみでした。 邪気が無いとは良く言ったもので、この義母は亡くなるちょっと前まで自分より年下の体の不自由な人の買い物をしてやったり、トランプや花札をして遊んだりして楽しんでいました。 

苦労をして四十年位働き続けましたが、受け取る厚生年金も年二回残金を子供と嫁と孫に全部分け与えてしまい、私には必ずビール券でした。 

亡くなる二年前には我が家で酔ってご機嫌になり、突然『寛一お宮』の歌を歌い出し、女房も義姉も始めて母の歌を聴いたと話しながら、お婆ちゃんが嬉しそうに歌った光景が今でも私には忘れられません。

亡くなるまで12~13年間夏に滞在したのですが、着いた日の寝る前にお婆ちゃんのオッパイを見せてもらうのも恒例でした。

それは妻が『婆ちゃんの乳首はピンク色で可愛い』と言うので、妻の乳首は真っ黒だから証拠に見せてと言って娘と私でお願いして見せてもらってからの行事でした。

字も書けず無知な私だからと体を動かし働くことしか出来なかったと回想しながら、毎年ここに遊びに来るのが一番の楽しみで『わしゃ幸せだ』といつも言っていました。

私は妻にもいつも平気で言うのですが、『婆ちゃんは字も書けず頭も悪いけど、教養があるよ』と私が言うと『政裕さんに教養があると言われると、嬉しいねー』と喜んでいました。

人間として無邪気に生まれ、そして邪気にまみれ、無邪気に死んでいくことができた人は幸せと思います。