幸せと不幸の数は同じ。

昔朝青龍の報道を聞く度に不快な思いを感じ、今は楽天の三木谷社長にも同じものを覚え、国会議員で自殺した松岡大臣の顔も思い浮かびます。  

何故か? と思い考えて、三人に共通しているものに気が付き理由をよく考えると、仕草や表情などを見ていて雰囲気に漂うプチブル的なものに私が不快感を覚え、猫が背中を立てて威嚇しているような余裕のない内面の弱さが感じられて、何とも切ない辛い気持ちになる為でした。  

店頭で様々な階層のお客様と向き合って来た中で実感した事は所得と幸せが比例しないことです。 

人間の持つ幸せと不幸の数は同じで、中身が微妙に入れ替わっている事が人には見えないだけです。

人格が伴わずに大きなものを手に入れている人は、同じ位大きなものを失っていることを、今まで沢山の人達を見て来て確信させられました。 

ブッセの『山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う』そんな詩が有りましたが、隣の芝生を見て幸せを追っていたら限りなく山を越え続けても辿り着かない焦燥感で鬱病か? 自殺です。 

人を支配したり、強さを誇示する事でしか自分の強さを確認できない人の心は弱いと思います。 

本当に強い人は辛い状況も受け入れ向き合いますので、強がらず目下の人の人格も尊重し、特に弱い立場の人には優しく出来ます。  

他人と比較せずに大切にすべきものを自覚し、幸せを量る物差しをお金や地位ではなく相互の心の思いやりの強さで考えると、日常の言葉や態度に自然とぬくもりが生まれます。 

先日娘に会った時、所得や地位で人の尺度を測るより、その人の全人格を見ている家族に好かれている人が人格者で幸せだと思うと話すと『負け犬の遠吠えかい』と言われ『はい』と答えましたが、私が娘にやり込められると女房がすごく喜びますが、なんだか私も嬉しくなります。

傷の無い家庭はなく、犯罪者を出したような見えている傷を背負っている家庭もあれば、背中や脛の傷のように他人からは見えない所に傷がある家庭がほとんどです。

大切なことは、家族がその傷を受け入れてお互いに癒す努力をどこまで続けられるか? に全てがかかっています。

天皇家にも傷があるように、人間社会の必然のような気がしています。