通り魔殺人。

通り魔事件の報道を目にするたびに、現代の若者が背負う生存と実存の二重苦への不安を心配しています。 

戦後の人達は食糧不足の生存への不安でしたが、戦後生まれの私などは『生きることの意味や価値』への実存の不安で、自分探しを迫られた時代でした。 

高度成長の時期は、今では犯罪的行為で摘発・逮捕されるような事も許される程に企業にも社会にも余裕が有って、人手不足で免責されていた事が沢山有り、その上に毎年昇給し若者の自立は今と比べると本当に容易だったと思います。 

そして幻想でしたが、お金と物が豊かになれば幸せになれるという、仮想でも目標が有りました。 

しかし、この幻想の犠牲者がその幻想を抱えた親に育てられた子供達です。

豊かな社会になってから生まれた若者が育った学校や社会はイジメやコネや格差などで固定化され、核家族化された密室を生み、地域社会の崩壊した自己中心的な大人社会に繋がってしまいました。 

そんな不安に怯えて登校拒否や引き篭りの増加が増え始め、そこを何とかやり過ごして社会に出た若者達も、コネや効率化でリストラなどの格差に身をさらされ、バブル崩壊後はパイの縮小と人口減の進行で『椅子取りゲーム』の椅子は大人が死守していて、努力しても報われないと思い知らされた状態に置かれた若者も多いと思います。 

秋葉原の犯人なども、生存の不安はなく努力すれば報われると勉強させられ、親の期待通りでなくなった時は見放されて実存の不安に置かれ社会へ投げ出されたのです。

社会の理不尽な現実に直面しても、家庭での親子関係は崩壊、地域社会も大人も手を差し伸べてくれる人も無く、心も体の傷も癒す逃げ場のない若者だったのです。

子供の自主性を削ぎ、親の理想像にしようと子供を道具にした人達ほど、その期待に沿わない子供には冷たい人達が多く、その子供達も親と同じ希望や理想を持って生まれてきたことへの配慮に欠けています。

子育ての目標を持つなら、せめて所詮自分達の遺伝子と自戒してハードルを決め、子供への望みより親を選べなかった子供へ謝罪から始め、子供の声を聞き子供の望みを叶える努力から始めるべきと思います。 

昔は全ての人が貧しい状況で今より公平でしたが、今は豊かさにも大きな格差ができ、ネットでもマスコミでも華やかな情報が氾濫している中で、孤立し傷を癒す場所も人も失って生存と実存の不安に怯えている若者に自己責任で済ますのはあまりに過酷すぎます。

お金や物が豊かになれば幸せになれると思うのは麻薬中毒のような幻想で、心が豊かになる事とは全くの別ものです。

親の抑圧が大きいほど子供の爆発力は強くなり、その代償も親に大きくなって返ってくることを自戒すべきです。