親族問題。

少し前の新聞で日本の殺人事件の約半分が親族間で起こっているという記事を読み、建前として世間体を装い語る家族や親族本音として心にある家族や親族への思いとのズレの中にある偽善というものは、いくら抑圧しても偽善がある一定の容量を超えると暴発するか? 自爆するか? の結末を迎えるのが必然の結果であることをデーターという統計数字が証明していると思いました。

東洋的思想として強い親孝行や親族関係の精神的圧力の中で、世間体を気にする事を生まれた時から文化として染み込まされて育ち、そこに倫理観の一致という西洋的なドライな親子・親族関係を考慮に入れないで迎合し抑圧してしまうから、親族という建前に苦しみ本音の抑圧に耐えられなり事件になってしまうのだと思います。

本来親子や兄弟でも一人ずつ倫理観は違うのに世間は同一視しがちで、本音で語れば親にも嫌な部分があっても、親だからという遠慮と世間体という圧力を意識させられ普段は抑圧しています。

ドライな狩猟民族的思考とベトベトした農耕民族的思考の違いの他に、神の存在を文化として染み込ませて育った一神教的思考と何でもありのご都合主義的多神教の文化的違いも背景にあります。

東洋的ご都合主義は何かと親の威光や年長者の威光を振り廻しますが、例え子供でも義務と責任を果たすようになったら、その子の自由と権利に敬意を払うという西洋的思考習慣の方が、ドライな親子や親類関係になるので偽善の抑圧も少なくなり、若い人の生きるエネルギーも社会的な問題の方に目が向けられるので、家族や親族間による傷害・殺人は少なくなるのでは? と思います。

そんな事を考えさせられたのは妻の死後眠れない日が続いてから、眠ろうとせずにラジオ深夜便を聞く習慣になり、ある日の深夜に目覚めラジオをつけると写真家の植本一子さんが母親と絶縁した経緯を話している内容を聞いたからです。

翌日パソコンで調べ彼女が書いた『家族最後の日』という本を図書館から借り読んで思ったことは、家庭を持った子供に過剰な干渉を繰り返すような親に対しては絶縁の方が障害や殺人事件避けることに繋がり、世間体を気にした抑圧より結果としては正しいと私は思いました。

夫婦生活も阿修羅の状態が続くなら離婚が良いように、親子・親類関係でも絶縁という離別の方がお互いを傷つけ合わないためにも賢明な選択では? と私が思うようになったのは精神科医・岡田尊司氏の『父という病』『母という病』の二冊の本を読み終えた以後からで、その時に私自身の心が楽になったのを鮮明に覚えています。

この本を読むと一人の人間の精神を育てるのも蝕むのも親であることを思い知らされ、歴史的人物や著名人が親と絶縁したり、リンカーンのように親の葬儀にも出席しないなど、表面上では計り知れない生の本人達にしか判らない阿修羅が親子・兄弟・親類関係という甘え(間違った上下関係)の構造の中に潜んでおります。

植本さんも仕事と家庭の二人の子育てという負担の増加の中で、家族というものを理想として想像していた段階から、実際にこなして行くことの大変さの中で金銭的・精神的・肉体的苦悩を体験し、ひとりで生きていた時に家庭というものを想像していた時とは真逆の苦悩を思い知らされています。

若い母親が子育てで悪戦苦闘中に親との関係に悩まされると、つい自分の子供を怒鳴ってしまい自己嫌悪に落ち込むのは、心に封じ込めている親子関係抑圧の蓋が弱者へ向けて噴出するからです。

もしそんな毒親に悩む人達がいたなら、少し冷静になって親を対等なひとりの人間として捉え直すことをお勧めします。

たとえ親でも人としてのマナーを守らない失礼な人には怒りを表明することが健全な事で、親への遠慮で抑圧し罪のない我が子に怒りを向けることの方が不健全なことと知って欲しいのは、今の日本の子育て世代は経済的にも子育ての社会的環境においても私達の時代より大変で、金銭的・精神的・肉体的の三重苦で苦しむ若い方達が沢山いるように思うからです。

そんな中で親としての心を健康な状態に保つためには、怒りは必ずやった相手に向かって返すべきで、その怒りを抑圧し我慢し続けると、必ず自分よりも弱い立場の人に噴出する精神回路に陥るので、放置すると悪循環から家族全員を巻き込んでしまいます。

特に親子関係において、自分自身が自覚している自分と同じ嫌な部分を親に見せられると激怒してしまう人は、自分自身の嫌な部分を自覚して直そうと闘っている前向きな人に多く、本当は無意識ですが自分自身に対して怒っているのです

無邪気な幼児への慈愛に溢れた心も、大人になるにつれて自覚させられる邪悪な心のどちらも同じ人間の心の中に同居していますが、植本さんの本を読んで改めて幼児期に親からの寛容の心に包まれて育つことの大切さを思い知らされ、子供達の未来を思うと家庭にいる父親と母親に少しでも心の余裕が持てるような、子育て支援政策の充実が急務であると思わせられました。

私自身も同じような苦しみを三十代頃から背負い、音信不通になった兄のことも含め、特に父の生存中には苦しめられました。

この年代になって理解できることは、一般に支配・命令をする親の心の中には自制できない甘えという弱さが潜んでおり、その親の甘えが子供を苦しめている元凶と理解しないと解決できません。

たとえ家族や親族であっても組織や社会と同じように、人間同士を支えているものは誠意や誠実さというもので、これを失っている状況の家族や親族関係には害が有っても益がないので、解散や解消することがむしろ益になると今の私は思っています。

ひとりの人間として大切な人生を少しでも豊かに過ごすためには、自分の中の邪悪な心を肥大させる人との関係を断ち、慈愛の心を広げてくれる人との関係を深めることを心掛けることが肝要で、母だから、父だから、親なのに、という感情から脱皮してひとりの人間として捉える勇気が必要です。

人間は誰でも自分自身に嘘をついて生きている人と一緒にいると不愉快になり、自分自身に正直に振る舞う人と一緒にいると楽しくなる不思議な動物なのです。

自分自身に嘘をついている人は、その嘘から目をそらすためにいつも何かに怒っていますが、そのような人は本当に怒りをぶつけなければいけない人からは逃げているずるい人の場合が多いです。

そのような不愉快な人に我慢し妥協して生きていると、生の不充足感がつきまとうので、やがて伴侶や子供に投影してしまいます。

妻の死後、私が一番後悔したことはもっと早くこのことを実行するべきだったということで、詳細は述べませんが文句も言わずジッと耐えてくれた妻の私への思いやりに甘えていた自分への後悔です。

人工呼吸器で妻の死を待つ三日間、横たわる妻を見つめながら私の決断が遅かった後悔を背負い、葬儀は妻の意向に沿って内々に済ませ、これからは穏やかに生きて行こうと決めました。

若い頃は『傷のない家庭はない』と言った河合隼雄さんの言葉が、いつも私の胸の中に沁み込み我慢し続けておりましたが、残り少ない人生を避けようのない血の繋がりで傷つくことを容赦願い、少しでも心が豊かになれる人達と接することを心掛け、自分自身の果たせる役割だけを全うし、娘と婿殿に迷惑と負担をかけぬよう妻と同じピンピンコロリの孤独死で旅立ちたいが私の願いです。

こんなことをブログに載せたのは深夜に写真家の植本一子さんの話を聞いたのがきっかけですが、ジメジメした年功序列社会の中で世間体という見えない圧力に悩み苦しんでいる多くの人達の参考になり、少しでも近親者による事件が減少することに繋がればという思いからでした。

最終的な結論は親より子供が幸せに、子供より孫が幸せになるように世代を繋ぐことが大切で、いつも未来の人達の幸せを優先する方策を取ることが最善策と今の私は思っております。